【連載】マラソンチャレンジ #5 本当の箱根駅伝を語ろう(中編)|箱根駅伝ランナー誕生秘話と、大学時代の思い出を語る(1/3)
イセタンスポーツゲートの鵜篭を司会に、國學院大学4年のときに10区を走ったオン・ジャパンの青野敏之さんとともに、「本当の箱根駅伝」の続きを語り合います。
箱根駅伝ランナーが生まれるまで
鵜篭 では、皆さんに大学時に入るまでのランナーとしてのキャリアをお話いただきましょう。
福島 小学校でサッカーをしていて、小4のときに出た市の駅伝大会で、「人より速いな」と思い、陸上なら上に行けるかもと、中学の部活で陸上に入りました。箱根を目指したのは、法政大学に徳本一善さんという選手がいて、サングラスで茶髪で目立つんですが、第76回(2000年)大会の1区でダントツの1位で区間賞を取ったのをテレビで観ていて、「自分も法政で箱根を走りたい」と目指しました。
田子 自分は小学3年からクラブチームでサッカーを始めて、小学校ではかけっこが速かったです。中学の部活で陸上を選び、サッカーも続けていましたが、走るとどんどん記録が更新されて、頑張っただけ表彰台に上がれたので、中2から長距離一本です。
青野 実は小学校では吹奏楽のトランペットを吹いていました。入学した東京・中央区立日本橋中学は吹奏楽部の名門で、顧問の先生が担任だったので入部を誘われたのですが、兄が陸上部で長距離をやっていて、「陸上やればいいじゃん」と言われ決めました。中1、2年は遅かったんですが、中3の春に3000メートル10分を初めて切って、走る楽しさを知りました。
國學院久我山高校に入って、まわりは速い選手ばかりで、毎日ついていけなかったんですが、高3のときに気づいたらトップになっていて、「大学でも走ろう」と。高校では自分が速くなっているのを実感したので、練習も好きでしたね。
大学の陸上部時代、どんな思い出が残っていますか?
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