INTERVIEW to Shoeshiner Vol.4 寺島直希|初代チャンピオンの秘蔵っ子
銀座三越が主催する靴磨き選手権大会が盛況のうちに幕を閉じた。初代チャンピオンを勝ち取った石見豪につづき、チャンピオンの座をつかんだのは寺島直希。石見の右腕である。
「THE WAY THINGS GO」の寺島直希氏
拍手がこんなにもあたたかいことをあらためて知った。京都で靴を磨きはじめて……。勝利者インタビューでコメントを求められた寺島は口を開くと、突如言葉に詰まった。観客席から起こった拍手が長いこと、感極まった寺島を包んだ。
師匠の石見は波乱万丈な人生で知られるが、寺島もまた、負けず劣らずの道のりを歩んできた。
「靴磨きのデビューは路上でした。とにかく警察に追いかけられる。そのうち気配を察する能力が身につきました(笑)。気配を察したら、速やかに道具をしまって喫茶店へ避難。許可をとろうにも警察も市役所もけんもほろろでしたね。通行人にもよく怒られました。邪魔者扱いされたのは一度や二度じゃききませんし、水をかけられたこともあります。インタビューではこのときのことを思い出してしまって涙が出ました(笑)」
46人のシューシャイナーがのぞんだ予選、準決勝を経て、決勝に進んだ寺島氏が、昨年の石見豪氏に続き優勝。大阪を拠点に活動する靴磨き専門店「THE WAY THINGS GO」のシューシャイナーが連覇する形となった
みかねた馴染み客のひとりが救いの手を差し伸べた。口をきいてあげるから、(東急)ハンズでやりなさい、と。
大学卒業までの2年半、寺島は路上に出つづけた。忙しいときは1日で37足を磨いた。店じまいまで行列が途切れないこともあった。そうして顧客は数百人にのぼった。
「京都駅ではじまって、祇園四条、烏丸、そして東急ハンズと都合4箇所で磨きました。ひとつところにいれば警察の目が厳しくなるというのもありましたが、それとはまた別の考えもありました。ぼくは当初、“お題は1円から。いくらでも磨きます”と謳っていました。相場を知りたかったのです。それでどうやら2000円が目指せることがわかった。で、2000円出していただける客層を考え、ビジネスマンの多い烏丸に移ったのです」
石見がぶらりとやってきたのは、まだ祇園四条で磨いているころだった。
「名古屋の得意先で靴を磨くから一緒に来ないかと石見はいいました。ぼくは二つ返事でついていきました」
石見はいう。
「インスタで活動をしているのは知っていました。有言実行してがんばっている。意気込みは買おうと思いました。その腕前は、正直、他所と比べても遜色ないレベルにあった。もっと寺島のことが知りたくなって、出張に誘った。2日で100足というハードワークでしたが、寺島は黙々と磨いていました。じつはそれまでにもうちで働きたいという若者はいて、試しに連れていったことがあるんですが、その子は昼飯はまだですかっていいましたからね(笑)」
包丁を研ぎつづけた父の背中
「小二で野球をはじめて、小六のときに硬式にスイッチ。そのときに買ってもらったグローブを高三まで使いました。革は汗を吸うと割れる。地元のスポーツ専門店でリペアしてもらいつつ、ぼくは暇があれば磨いていました。といっても始発で家を出て帰るのは11時とか12時。帰れば夕飯を食べながら寝てしまうような毎日だったので、もっぱら通学途中の電車のなかで磨いていました。あ、たまに、授業中にも(笑)。それなりのレベルの野球部なら道具のケアは当たり前のこと。だけどチームメイトはさっぱりやらない。監督やコーチはぼくのグローブをみなにみせて、寺島を見習えとしょっちゅう怒っていました(笑)」
道具をケアしなければならないという意識は物心ついたときには身についていた。
「父親が料理人で、休みの日に包丁を研ぐ父の背中をみていましたからね。ぼくにとっては自然なことでした。グローブの磨き方を教えてくれたコーチの言葉も忘れられません。コーチは指でオイルを塗り込んでいった。クリームが入りやすいんですかと尋ねたら、いや違うで。自分の手を汚して磨くとな、愛着が湧くやろって」
長い野球生活を終えた寺島はファッションに目覚め、髪を伸ばしはじめる。
「大学の一回生のときに兄がダブルアールエルをプレゼントしてくれました。はじめて手に入れたお洒落なデニム。合わせる靴に悩むぼくを、兄は行きつけのビンテージショップに連れていってくれました。モラールという老舗です。ダブルアールエルの足元に選んだのはフローシャイムのインペリアルでした」
磨き方はモラールのスタッフから教わった。一度はグローブ職人を志したこともあるというが、寺島の興味は一気に靴へとシフトした。在学中に手に入れた革靴は10足に達したというからなかなかのものだ。そしてはたと気づく。まわりの大人に靴に気をつかっている人がひとりもいないことに。
靴磨きの魅力を伝えたい。ぼんやりとではあるが、いつか靴磨きで生計を立てたいとも考えるようになっていた。そのころから寺島はわざわざ家族がいるときを見計らってリビングで靴磨きをした。まずは身内を味方にしようと目論んだのだ。
「ちょうど弊社の石見やブリフトアッシュの長谷川さんが取り上げられることが多くなった時期でした。さっそく石見とコンタクトをとって、その3日後には店を訪れていました。表向きは客を装っていましたが、会って早々に弟子入り志願をしました。ところが、あっさり断られた(笑)。で、興味があるならまずは自分でやってみたらどうか。路上とかどうなのとアドバイスされて」
寺島はそうそうに路上に出た。
「いま考えれば、ファニーがぼくの背中を押してくれたと思っています。ファニーは13歳8ヵ月で亡くなった我が家のコーギーです。ファニーはさかのぼること1年、腎臓をやられてもうだめだろうといわれました。それからぼくは藁にもすがる思いで医師に処方された注射を打ちつづけました。奇跡としかいいようがないのですが、ファニーは走り回れるほど回復した。ほんとうに元気だったんですよ。ところがぼくが路上で靴磨きをはじめる1ヵ月前に急変してあっけなく亡くなった。ファニーは辛い注射に耐えて最後に元気な姿をみせてくれた。ぼくもがんばらないといけない。ぼくはもともとシャイで、人前に出るのが苦手でした。闘病生活と戦ったファニーが勇気をくれたんです」
ひまわりのように太陽の陽を浴びて
大学を出て晴れてTWTGの一員となった寺島は石見の薫陶を受けて着実に腕を上げていった。石見は大会前に優勝は間違いなく寺島だと思うと目を細めたが、その通りになった。
そこには自分なりの工夫も成果となって現れた。
「大会にのぞむにあたり、人差し指と中指で交互に磨くというスタイルを編み出しました。クリームは乾燥している指のほうが乗せやすい。2本使えば、1本乾かしているときにもう1本の指で磨くことができる」
その2本の指をクロスさせているのも寺島のこだわりだ。
「ぼくの手は大きい。少しでも所作が美しくみえるようにという工夫です。指を重ねれば細くみえますからね。ただ、指に無理な姿勢を強いることになりますから、時間はかかった。石見が優勝して、次はお前だぞといわれて1年。ずっと練習を重ねて、ようやくものになったと感じたのは大会直前のことでした」
当日は両親も応援に来ていた。朝一番で会場に乗り込むと、ステージの目の前を陣取った。そして声を詰まらせた息子をみて涙を浮かべ、大会を見届けると明日も仕事があるからとその日のうちに京都へ帰っていった。息子をねぎらう時間もろくにとれないなか、石見をみつけると駆け寄ってこういったそうだ。石見さんのおかげです。ありがとうございます、と。
靴磨きをやりたいといった寺島に対し、両親は反対のそぶりさえみせなかったという。職業に貴賎なしとはいっても、我が子となればそうもいっていられないのが親心というものだ。ほんのすこしまえまで、靴磨きはけして褒められた職業ではなかった。しかしふたりは息子を快くおくりだした。どんな心持ちだったのか、機会があればたずねてみたい。
寺島にはまっすぐ、すくすくと育ったひまわりを思わせるところがあるけれど、それはまわりの人間が陰になり日向になり支えてきたからだろう。
Photo:Tatsuya Ozawa
Text:Kei Takegawa
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