【インタビュー】エンツォ・ボナフェ|ほどほどハンド、とことん正直。(1/3)
仕上げの工程(=一分)である出し縫いのみ機械に頼る九分仕立てを死守するイタリアはボローニャの至宝、エンツォ・ボナフェ。最後の来日といわれてから5年。83歳の名工がトランクショーに合わせてふたたび訪れ、その半生を振り返ってくれた。「日本との取引が始まって30年。縁のある国だからね」
靴業界に足を踏み入れたのは13歳の年。親戚が<a testoni/ア・テストーニ>で働いていて、そのツテを頼って潜り込んだんだ。
うちは戦争でとても貧しかった。子どもたちは履くものさえなかった。戦争が終わって、母親はサンダルを買ってくれた。姉とわたしは一足きりのそのサンダルを交替で履いたものさ。
わたしたちはすぐにでも働かなければならなかった。履物に苦労したから、履物の仕事をしようと思ったんだ。
<ア・テストーニ>で15年。やってみてわかったが、手を動かすことが性に合っていた。裁断のみならず革の検品まで任されたんだからなかなかのものだろ(検品は一般的な靴工場では社長みずから行うことも珍しくない工程だ)。
そのうち、自分の靴をつくりたいって気持ちがむくむくともたげてきた。そうして知り合った職人とともに1963年にはじめたのが<Enzo Bonafe/エンツォ・ボナフェ>というわけだ。
立ち上がりはほんとうに苦労した。いまはもう笑い話だけれど、死んでしまおうかと思うくらいに。出来立てホヤホヤの靴をバッグに入れて行商にいくだろう。それこそ足元をみられて叩かれるから、職人の給料も満足に払えない。
ワイフのグエリーニには感謝してもしきれないね。彼女が外で働いて足りない分を穴埋めしてくれたんだ。日中は経理の仕事をして、帰ればうちの仕上げを手伝ってくれたよ。どこで出会ったのかって。<ア・テストーニ>だよ。<ア・テストーニ>は一生の仕事を与えるだけじゃなく、仲人もつとめてくれたってわけさ。あぁ、すこしまえに引退してしまったが、底付け職人のマルチェロも<ア・テストーニ>で意気投合した。彼はわたしの右腕だった。
いまは日本はじめ、世界のお店にうちの靴が並んでいるけれど、なにか転機があったわけじゃない。まさしく一歩一歩、歩んできただけだ。
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