「むかしからファッションに興味がありました。中学になって色気づくと、お小遣いの1000円を握りしめて柏へ。電車賃を引いた500円が軍資金でした。高校生になっても繰り出すのは柏。柏は千葉県民の渋谷ですからね(笑)。塾にはカラーシャツに祖父のジャケットを羽織って通っていました。そうそう、小学生のころのわたしはシルバーの上着がお気に入りでした(笑)」

長じて服飾専門学校に進むも、就職にさして興味のなかった南はタウンワークでたまたまみつけた地元のシャツ縫製工場に潜り込む。百貨店のオーダーシャツを手がける工場だった。

「シャツはそれなりに好きで、専門学校時代、担任との雑談で『シャツのブランドってなんでないんですかね』なんて疑問を口にしたこともありましたが、当時はまさかシャツ職人として飯を食っていくなんて思ってもみませんでした」


もともと手先が器用だったこともあるが、シャツを縫うその仕事は性に合っていたという。勤めた3年のうち、終わりの1年は縫製場の責任者を任された。

「単調な作業を続ける素養はわたしにはありません。深夜まで続くその仕事を投げ出さなかったのは、次々にあたらしいことが学べる環境にあったからです」

ひととおりのことを吸収した南は24歳で<ミナミシャツ>の看板を掲げた。サンプルをつくって営業に回って、聞けばあっと驚く2つのシャツ・ブランドの下職(アウトワーカー)がすんなりと決まった。

「工場で働いていたころは寝る時間を削ってみずからの勉強もしていました。スカート一枚しか縫ったことのない不良学生でしたから(笑)、型紙からなにから独学で身につけました。学校の先生に連絡して、あらためて教材を仕入れ、疑問があれば都度質問した。教科書どおりにやって、一つひとつその意味を知っていきました。そこから自分なりの理論、計算式を導いて、いまがある感じです」




同業者は高齢化の一途。気づけばメインの取引先ではその生産量の三分の二近くを南が引き受けるまでに。幸先の良いスタートを切ったにみえたが、工賃の安さに悲鳴をあげることになる。

「安ければ数を稼がなければなりません。朝の9時から夜中までミシンを踏んでいたら首が回らなくなり、一週間近く寝込んでしまいました」

そうして29歳の年に住まいを兼ねたアトリエとして一軒家を購入、屋号をそのまま採ったオリジナルを立ち上げると、生地屋さんに紹介してもらったハンカチ専門店のH TOKYOでトランクショーをやらせてもらうことに。一人、二人と顧客を増やしていき、現在では1日10客の予約が瞬く間に埋まるようになった。昨年10月には念願の直営店が日本橋にオープンした。

「日本のオーダーシャツのマーケットは年間で5000万枚といわれています。300枚くらいならなんとかなるだろうと考えました。300枚は一日一枚の計算です」

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