<Sartoria Ypsilon/サルトリア イプシロン>船橋幸彦|希代のテーラーとパトロンの幸福な関係
その街を振り返るときに欠かせない会員制の社交クラブ、日本橋倶楽部。これまでの歴史がじわりと伝わってくる重厚な空間で軽妙なトークを繰り広げたのは船橋幸彦と日本有数の経営者、米濱和英。30年来の付き合いになるというふたりのあいだにはかつての芸術家とパトロンのような、幸福な関係があった。
女房もみとめたラインの美しさ、そして軽やかさ
内野 おふたりのお付き合いのきっかけを教えていただけますか。
米濱 イタリアを縦断する視察旅行がありましてね。北はミラノから南はシチリア島まで、全部まわるのに2週間かかりました。単身イタリアにわたってがんばっている男がいるというので、その足でたずねたのがそもそもです。1979年のことですから、すでに30年以上まえのことですね。
船橋 まだアパートの一室でちくちく縫っていたころです。なつかしい。
米濱 2着注文しましたね。できあがるまでにずいぶんと時間がかかった記憶がある。
船橋 面目ありません。
米濱 それ以来、船橋さんには何十着とつくってもらいました。スーツだけじゃなくて、オーバーやタキシード、それから革ジャンも。たまには浮気もするけれど(笑)、結局袖をとおすのは船橋さんが仕立てたものばかりですね。
内野 ずばり、なにがよかったんでしょう。
米濱 まずはラインの美しさ。お仕立券をもらってヨソでつくることもあるんですが、女房がすぐに気づくからね。それどこの? 船橋さんのじゃないわよねって。
内野 奥さまはそうとうな目利きですね。
米濱 (チャーミングにうなずきつつ)そしてとにかく軽い。むかし地元の長崎で誂えてもらったこともあるけれど、かちかちでねぇ。
船橋 あまくやさしい手縫いは生地も内蔵物も痛めない。修理して着続けることができるのも魅力です。
米濱 忘れもしない福岡証券取引所に株式を上場した1985年、42歳の歳につくってもらったブレザーがいまも現役です。ま、ぼくがそれだけ体型を維持しているってことですけどね(笑)。
船橋 いやそれはほんとうにそうです。ウエストの調整も1センチ程度だったと記憶しています。
米濱 女房からすると、まるでおかしいみたいですけどね。好きに呑んで食べての毎日ですから(笑)。
内野 なおさらすごい。
米濱 秘訣はストレッチね。(実演しそうな勢いで)ぺたっとくっつくよ。ここまでできるようになるまでに3〜4年はかかったね。
船橋 スーツもきちんとケアされていらっしゃる。
米濱 たいしたことはしていませんよ。その日の夜に陰干しして、シーズン終わりに街のクリーニング屋さんに出すだけだから。
内野 ご自身で?
米濱 ええ、単身赴任ですからね。しかし自由はあまりないんです。抜き打ちで上京してくるし、娘も近所に住んでいるから隙をついて遊ぶのが大変だ(笑)。
みえないところにこだわる、という共通項
内野 いまでこそ海外帰りのテーラーは何人も出てきていますが、船橋さんはその嚆矢といっていい。
船橋 服は西洋のものなのだから、やるなら本場へいかなければ、というところからです。カラチェニ(ローマの老舗テーラー)で修業して、30歳で独立して会社をつくりました。33年、暮らしました。独立したばかりのころはとにかく苦しかった。そんなときに助けてくれたひとりがときの大使でした。石畳をとぼとぼ歩いていたら突然クルマがとまって、目のまえに現れた。そしてこういったんです。「どうしたんだい、顔面蒼白だよ」って。洗いざらい事情をぶちまけたら、注文してくださることになりました。大使館を訪れたわたしは緊張がピークに達しておりまして、もう一度採寸にうかがわなければなりませんでした(笑)。
内野 そんな時代があっていまがあるんですね。いまやどんなお客さまも袖をとおせば十中八九お買い上げになるイプシロンだけに、感慨深いものがあります。
船橋 ありがとうございます。この着心地を生む秘密には手縫いであることともうひとつ、独自に編み出されたバランス感覚があると思います。
内野 先日特許をとられたやじろべえ理論がそれですね。
船橋 首のうしろを支点に、前後左右のバランスをとっています。フィッティングにかんしては師匠と呼べる人がおりません。しかしそれがよかったんだと思う。なぜならば、とことん自分の頭で考えることができたからです。
内野 目にみえないところにこだわる姿勢は米濱さんにもつうじますね。ちゃんぼんの具材をすべて国産野菜に切り替える、というニュースは衝撃的でした。
米濱 これからは量よりも質の時代で、わたしはかねてからそちらを重視したいと考えていました。国産野菜は7年前にはじめて、1年かけて完全に移行しました。62歳で一線を退いて以降は業界の裏方をお手伝いするようになり、全国の産地を飛び回った。そこで食べさせてもらった野菜が掛け値なしにおいしかった。それからですね。「日本の自給率はたったの39%。これはまずいですよ」って政治家みたいなことをいうようになりました(笑)。
現場復帰にあたり、さんざんみなを焚きつけてきたんだから、実行に移さなければならない、と。当然ながら原価がぼーんとあがって、どうしても吸収できない。銀行には時代に逆行するといわれたもんですが、押し切って値上げもした。しかし、これが評価された。
内野 服地の場合、安くていいものがイギリスやイタリアから入ってくるというのが難しいところですね。
米濱 そこは真剣に育てる気持ちがなければならない。日本の食を海外に、と威勢のいいことをいってもただ店を出すだけではダメで、出汁のとり方から現地にいって指導するきめ細やかさが大切になってくる。育てる、ということはそこまでやらないとカタチにならないんですよ。この取り組みを続けてきてなによりうれしいのが、産地へいくと、子どもや孫に代替わりしているんです。お父さんは元気ですか、なんてやり取りはじつに楽しい。
船橋 服飾の製造現場はどこも疲弊していて、30年まえのイタリアですら、わたしのことを白い蠅って呼んでいました。つまり、わざわざ日本からやってきてモノづくりを学ぼうなんて、そんなヤツは存在するわけがないってことなんです。しかしいまの日本はまた、若い人々が集まりはじめている。可能性はあると思います。
内野 最後に(対談の舞台となった)日本橋倶楽部にも触れておきましょう。船橋さんは米濱さんの紹介で会員になられたんですね。
船橋 日本橋の由緒正しい倶楽部に加わることができたのは光栄です。わたしは日本橋にアトリエを構えておりますが、それは江戸時代に薬草を扱う長崎屋(長崎出身の江原源衛門が創始)があったからです。長崎屋はオランダ商館長の定宿でもありました。つまり、当時西洋文明に触れることのできた数少ないエリアであり、長崎で生まれ育ったわたしとしてはひとかたならぬ思いがあったんです。
内野 お話をうかがって感じ入ったのは、米濱さんはつねに陰になり、日向になり、バックアップされてきたことです。パトロン的な精神をおもちなんでしょうか。
米濱 それはどうでしょう。
船橋 おありですよ。今日もこのあとのパーティで配るから私の名刺をくれって。
内野 そういう意識をもち続けていらっしゃるのも若々しさの秘密なんでしょうね。身体にぴたりとフィットしたスーツと相まって15歳は若くみえますよ。
米濱 じゃ、今晩は銀座にでもいくとしよう(笑)。
Text:Takegawa Kei
Photo:Fujii Taku
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