【インタビュー】マリアーノ・ルビナッチ|イタリア服飾文化の種子
ブリティッシュ・テーラリングへ敬意を払い、しかしそのままトレースすることなく、サルトリア・ナポレターナといういまやサヴィルロウと並び称されるスタイルを構築した<RUBINACCI/ルビナッチ>はさすがの大英帝国も素通りするわけにはいかなかった。
ロンドン万国博覧会の翌年、1852年にプロダクト・デザインの向上を目指し、ケンジントンで開館したヴィクトリア&アルバート博物館。その名のとおり英国王室のおしどり夫婦が礎を築いた博物館である。<ルビナッチ>はすこし前にテーラー・セクションで唯一、イタリアから選出、永久展示されることが決まった。
「ロンドンへのオマージュからはじまったルビナッチ家のモノづくりがその地の由緒正しい博物館にみとめられる。こんな名誉な話があるでしょうか」
<ルビナッチ>はもともと<ロンドンハウス>という看板を掲げて商っていた。屋号を改めたのはいまから20年ほど前のこと。世界に打って出るにあたり、商標の問題でファーストネームを冠したと当主のマリアーノ・ルビナッチは説明したが、かれの表情には自負も見え隠れする。
「合理化を重んじるイギリスは工房を会社組織とし、海外へ産地を求め、形骸化しつつあります。ファミリービジネスを守りつづけたか否かがイタリアとイギリスの違いになってあらわれました」
<ルビナッチ>は現在、平均年齢40歳を切る45人もの職人をそろえ、ナポリ、ミラノ、ローマ、ロンドン、ニューヨークに店をかまえる。磐石の態勢を築いたマリアーノは感慨深そうに語った。
「二代目になることはmustで、どうじにwantだった」
<ロンドンハウス>はマリアーノの父、ジェンナーロが1930年に創業した。サヴォイア家の騎兵師団の将校だったが、類いまれな洒落者で、社交界における指南役として次第に評判をとるようになる。腕の立つ職人に出会えば誂え、希少な服地が手に入ったと聞けば仕入れた。
「スティリズモ・ス・ミズーラ。すなわち、スタイリストの先駆けのようなことをしていたようです」
ジェンナーロの感性をはぐくんだのは<モルツィエロ>という店だった。母方の祖父がいとなむ服飾雑貨の店で、物心つくと入り浸ったという。そこでめぐりあったのがヴィンツェンツォ・アットリーニ(チェサレ・アットリーニの父にあたる)。その店は第一次世界大戦の混乱で畳まざるを得なくなり、ジェンナーロがヴィンツェンツォを引き連れてオープンしたのが<ロンドンハウス>だった。
「1800年代のナポリには1000人の職人がいたそうです。ところが王制の廃止に象徴される時代の変化で減少の一途をたどります。このままでは廃れてしまう、なんとかしなければならないという思いが父にはあった。服を誂える場として店をかまえたのも当時は画期的な試みでした」
その時代、スーツといえば軍服由来のイギリスが唯一無二の正統だった。快楽的なイタリア人にとって、お手本とする先駆ではあったけれども、軍人の威厳を表現すべく研ぎ澄まされていったそれは少々武骨にすぎた。しなやかで、色気を感じさせるシルエットを――そうして完成したのがサルトリア・ナポレターナだった。
「イタリアはいまでこそミラノやローマ、フィレンツェなどいくつものエリアで服飾文化の花が開いていますが、種子ともいうべき存在がナポリであり、<ルビナッチ>なのです」
18歳の年に父が急逝、マリアーノに自身の将来を選ぶ余地はなかった。しかしながら折に触れ、嚆矢たるルビナッチ家はその伝統をまもっていく責任があると聞かされてきたマリアーノに迷いはなかった。
「二代目になることはmustでしたが、どうじにwantだったのです」
息子のルカがミラノの店を、娘のキアラがロンドンの店を仕切っている<ルビナッチ>はたとえばそのスーツを子どもに譲るときがきても安心してリフォームが頼めるだろう。ファミリービジネスの首尾は贔屓筋にとっても重大な関心事だ。
Text:Takegawa Kei
Photo:Okada Natsuko
お問い合わせ
メンズ館5階=メイド トゥ メジャー
03-3352-1111(大代表)
メールでのお問い合わせはこちら