ビスポークの名門老舗、<ジョージ・クレバリー>が2013年にプレタポルテのプレステージ・ライン、<アンソニー・クレバリー>をローンチした。アンソニーは創業者のジョージが目の上のこぶのように接した甥っ子で、孤高の天才だ。
クレバリー家にはシューヒストリーにその名を刻んだ男がふたりいる。ひとりがジョージ、もうひとりがアンソニーだ。
チェコスロバキア出身のニコラス・トゥゼックが創業した伝説のビスポーク靴店、トゥゼック。ここに22歳の年、1920年よりおよそ40年にわたって籍をおいたのがジョージで、ニコラスが一線を退いたあとのトゥゼックはジョージとその親類が切り盛りするのだが、親類のひとりがアンソニーだった。
後世の評価を考えれば驚くほかないけれど、ジョージがみずからの看板を掲げたのは60歳だった。勝因は名門を支えた技量にくわえ、あらたなスタイルを確立したことにあった。
チゼルトウ――ノミの刃に似た直線と曲線が複雑に絡みあったトウ・シェイプは素朴なラウンドトウしかなかった時代の紳士にとってカルチャーショックそのものだった。ハンフリー・ボガート、ケーリー・グラント、フレッド・アステア…。ただちに華やかな顧客リストが作成され、リストは年々更新をつづけた。
77歳で店を閉めるも、職人人生を終わらせたわけではなかった。そうして95の歳にジョン・カネラとジョージ・グラスゴーというふたりの愛弟子にクレバリーの看板を託した。翌年にはプレタポルテを発表、現在の態勢ができあがる。
この本家筋とはべつに生きたのがアンソニーである。ジョージを追うように独立したアンソニーもまた、チゼルトウをハウススタイルとした。現当主のジョージ・グラスゴー・ジュニアはいう。
「おなじ環境で切磋琢磨してきたふたりは美的感覚も近しいものがあったのでしょう。けれどそれゆえ、ふたりは反目しあい、別々の道を歩んだ。最期まで関係が修復されることはありませんでした」
アンソニーが削りあげたチゼルトウはジョージのそれに比べてアグレッシブにアーティスティックだった。アンソニーは下肢に障害を抱えていた。美に対する執着が生んだ、境地。屋根裏を作業部屋にした孤高の天才のもとにはジョージに負けず劣らず著名な紳士が足を運んだ。
袂をわかったふたりの邂逅
ジョージ・グラスゴーの息子、ジョージ・グラスゴー・ジュニアは政治経済をまなび、いちどはニューヨークでファイナンシャルの仕事に就いたが、2010年に当主の座を引き受けた。「靴に囲まれて育ったわたしには自然な成り行きでした」
「現在はトランクショーでそうですね、1年の半分近くはロンドンを離れます。雲の上にいる時間はローリング・ストーンズと変わりません。変わるのは収入です(笑)」
世界を飛び回るジュニアはいっぽうで生産態勢の充実にも努めてきた。クレバリーとカネラ、グラスゴーではじめた工房はアウトワーカー含めれば60人の大所帯になった。斜陽産業にあってこれだけの人材を育て、あらたな顧客の獲得にも成功しているジュニアはやり手といっていい。
水面下ですすめてきたのがアンソニー・クレバリーの復活だった。
「歴史に埋もれていたアンソニーの名をわれわれがもてる力、つまりビスポークの職人仕事を存分に反映させたプレタポルテとして甦らせる。それは悲願でした」
アンソニー・クレバリーはチャーチルやジバンシィなど往時の顧客が注文した靴をベースにしている。ビスポーク・ラインとおなじカーフなどの最高級素材、ヴェヴェルド・ウエスト、フィドル・バックにつづく小ぶりなヒールカップ、ピッチド・ヒールがもたらす、グラマラスな女性を彷彿とさせるボディ。ジュニアとラストメーカー、そしてまだまだ意気軒昂なパパ・グラスゴーが試行錯誤を繰り返したというコレクションは満を持しただけある域にあった。
「なかでも苦労したのは木型でした。ひとつ完成させるのに3~4年はかかったと思います」
彼がうちで働くようになって15年。ようやくわかってきたんじゃないかなと辛口のジョークをいうジュニアに対し、生粋の職人はいやいやまだ緒に就いたばかりですと愚直にこたえる。
靴におけるシェイプとは、クルマのエンジンのようなものなのです――木型ひとつで印象はがらりと変わる。これを世の紳士に教えたジョージ・クレバリーの屋台骨らしいコメントである。しかしなによりもうれしいのは、才能があだとなってほどけてしまった叔父と甥の靴紐を、遺志を継ぐものが結び直したことだ。
Text:Takegawa Kei
Photo:Okada Natsuko
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